SWIM IN HELSINKI

離人症とは少し異なるのかもしれないけれど、1ヶ月くらい前から、頭の中のことと現実の境目がわからなくなるタイミングが増えてきた

デンシャでウトウトしてる時、車内のアナウンスと夢が混ざるような感覚とよく似てる
 
社会的な行動を一切しなかった日の夜、眠る前にそれはよく起こる
あれ、いまこれ、現実かなあってなるんだけれど、なんだか最近は諦めに近い感情がぐるぐるぐるぐる渦巻いてて、ああまあ怖いけれどどっちでもいいか、って寝る(相変わらずなかなか寝つけないのだけれど)
 
1つの解釈は、今まで(の世界に対してのぼくの認識)と同じように、自動巻き時計みたいに時間は流れてて、みんな生きてて、世界はちゃんとそこにあって(どうしようもない世界)、社会があって(どうしようもない社会)、その中のほんの一部にぼくとぼくの周りの人がいる(相対的に捉えれば、もちろん無理矢理相対的に捉えようとすればなのだけれど、なかなか悪くない場所だと思う)
相変わらずの日常は相変わらず続いていて、たまたまあなたはそういう時なんですよ、というみなさんが大好きなコトナカレワールドピースなかよしこよしだねダけど無意識のうちにマイノリティは疎外しましょうね秩序を守るためには仕方ないですのよ論
 
ただ最近、あまりに現実かどうかわからない時があって、そんな時は、はたまたほんとうに現実ではないのではないか、と思う
みんなにも体験してほしいんだけれど、それは本当に現実かどうかわからないし途方もなく怖いのです!
 
もう一つ、そもそももうぼくは死んでいて、観念の世界みたいな気持ち悪い場所でやきもきしてるのではないかという気もする
なんとなく、人は死んでも死んだことにはっきりとは気づけないようにできている可能性もあるのかもしれないなと思って(そうなるとぼくらが普段使っている生や死の意味合いが大きく変化するのだけれどここは辞書的な意味で)、なぜならいま生きている世界(と各々が認識しているもの)は物質のチカラがほとんど0に近くて、生きることはそのほぼ総てを脳に依存しているから(これはまごうことなき事実ですね)、死ぬことも生きることと概ね同義だと仮定したら(ここは黙って仮定してください)、死ぬこともそのほぼ総てを脳に依存しているはずで、つまり全人類が(動物たちがどう生を捉えているかはよく知らないのでネコちゃんはいれません)脳を清潔な水槽に入れている(その水槽はきっと北欧にあるんだろうなあ(もちろんここでの北欧はユーラシア大陸ではなく脳の中にある))としてもぼくは否定できないわけで、いやでもこの仮説はあくまで目的ではなく手段なので、一般的なバカが飲みの席で話すような、いやだから仮にそうだとしたらなんなの論に終始するわけではなく、それはもう一般的に恐れられているAK-47(それはたくさん弾が出る拳銃です)よりも確実に人間を殺すし、首都直下地震よりも確実に万物を揺るがすことなのです!
 
 
そうはいってもこの世の中でみんなの脳みそはヘルシンキのプールにあるんだ!と言ってまわってもいい加減ちょっとは実際的に生きたら?といつも通り冷たく笑われるだけなので例によってぐっと堪えるけれど、ちっぽけな離人症めいたものからここまで論理が発展(破綻?)するとは自分でも思ってなかったのでびっくりをした
 
実際的に生きるというのはなんなのでしょう
 
 
今はほとんどの人がこわくて仕方ないです……